大昔。バーチェス頁岩ができた頃というくらい昔、おれは高校生だった。
ある日、まったく見向きもしてくれない女の子にほれたおれは、その子が同級生のベースマンとつきあっているという噂を聞いた。まあ想定内のことではあったにしても、少しくじけたことはくじけた。
それが下地になったのか、どうだったのか。ある日おれは、ボクシングを始めた。すでに文化系の放送部員だったおれは、掛け持ちで体育系の中でも相当ハードな部類に属するボクシング部にすんなり入れてもらえるものでもなく、とりあえず課内クラブとしてボクシングクラブに入り、そこで出会ったボクシング部員と、なあなあの関係になりつつ、出入りを許してもらうという形でボクシングを始めた。
別に強くなりたいとか、憎いあんちしょうの顔が浮かぶとか、そういう動機があったわけではない。おそらく、今にして思うに、それまでの自分ではない、まったくちがう自分になりたかったのだろうと思う。どう考えても、おれがボクシングを始めるというのは、たとえばジミ・ヘンドリックスが吉本に入って関西弁で漫才をやるというのと同じくらい、変で、おかしなことだった。
しかも、おれは当時、身長177cmで体重76kgというデブであった。おまけに、詩なんか書いていた。詩なんか書いたりする、デブの高校生がいきなりボクシングを始めるというのは、一般的にいうと発狂であろう。それについて異を唱えることはしない。
もっとも、少しアタマがどうかしないことには、こんなことはやらないという意見もある。ボクシングは一生楽しめるスポーツではないし、段位をもらって履歴書に書けるものでもない。ぎりぎりまで減量をして、わざわざ他人に殴られに行くのだから、あまり健康に良いというものでもなさそうだ。
で、おれは、もし自分がリングに上がるようなことになった時に、いったい何級であるのか見当もつかなかった。そこでとりあえず、そのへんにいるボクサーを片端からつかまえて、こいつらがどのくらい強いのか試してみることにした。
高校生では事実上、最重量級といってもいい60kg以下のライト級では(その上にウェルターとかミドルとかあるけれど選手は極端に少ない)、まったく歯がたたなかった。お話にも何にもならない。
鍛え上げた60kgのボクサーのパンチというのは、たとえそれが高校生のアマチュアであったにしても、左のアゴから入ってきたパンチが脳髄をいわして、おれをしばらくの間花畑へ連れていき、そのまま右のアゴへ抜けていくというような衝撃があった。練習用の16オンスの巨大なグローブであったにもかかわらず、一週間くらい口を開くことができなくなって、リンゴのすりおろしたのばかり食べていたことがある。
一般に60kgといえば小柄なヒトという感じではあるけれど、ほぼ全員、10kg程度の減量をするから、ライト級でも、たいていもともとの体重は70kgくらいある。筋肉のしっかりした、人並み以上の闘争心も備えた70kgである。そんなのが、それまでの喧嘩などでは見たこともないスピードで動き、ぐわしぃぃぃぃ、とパンチをかましてくるのだから、詩人のおれはたまったものではなかった。
そのライト級で、後に九州大会で優勝することになる男がいた。口数が少なく、人の冗談にひっそりと笑ったりするくらいの非常におとなしい男で、人間的にもいいやつだった。とてもグローブをつけて他人と殴り合うようには見えないのだけど、いざとなると途方もなく強かった。
そいつと夏の補習授業で、たまたま同じクラスになった。やつは一番前の席の、教壇の正面に座って熱心にノートをとっており、学業でもいい加減だったおれは、後の方の席で熱湯に浸かったウナギのようにのびていた。
ある瞬間。
授業をしていた社会科のぼっちゃん刈りの先生が、教卓にある花瓶に手を引っかけて、花瓶が床に向かって落ちていくのをおれは見た。おれ以外は全員下を向いてノートをとっていたので、たぶん目撃者はおれだけだ。ライト級も、下を向いてノートをとっていた。
ああ、落ちるなあ、割れるなあ、と思っていた。するとそいつが、右手でノートをとる態勢のままで左手をゆっくりと伸ばし(おれにはそれがスローモーションのように見えた)、落下しつつある花瓶をつかまえて、そっと教卓に戻した。そのシーンもまた、おれ以外、見ていなかったと思う。
ぞぞ気が走るというのは、あのことだ。こんなやつと、おれはスパーリングをしていたのだ。
とても、こんなやつと同じ階級で生きてはいけないと考えたおれは、そのひとつ下のフェザー級になることにした。maxで57kg。19kgの減量が必要だった。
朝起きると、お袋がタッパーウエアに野菜を切ったのを詰めておいてくれていた。そいつを野菜炒めにして食べ、登校する。それからジャージに着替え、黄色いビニールのヤッケを着込んで、口にマスクを着けて40分走り、ウエイトをやる。
昼食は、ヤクルト・ジョアが一本。放課後になると、またもやマスクを着けて走った後、一人でバッグ打ちやシャドーなどの基本練習を始めた。やがて、正規のボクシング部の練習にまぎれこませてもらったりした。彼らの通常メニューはバッグ打ちを2R、ミット打ちを2R、シャドーボクシングを2R、互いにテーマと約束事を持って練習相手と対峙するマスボクシングを2R。試合が近づくとスパーリングが加わり、ぶっ続けで15Rになったりした。インターバルの1分は、柔道着を頭からかぶり、さらに体育館シートにもぐりこんで可能なかぎり息を止める。汗が噴き出て目が回る。
最初、サンドバッグを3分打ち続けることができなかった。はじめの1分くらいはちゃんとしたフォームで打てるのだが、やがて手が上がらなくなってジャブが下から出てくるようになる。これは猫パンチよりも見苦しい。
ある時、高校を出たら四国の芦原道場に行く、という極真空手男と出会った。体重は50kgそこそこだったけど、ケモノのように敏捷で目にも体にも気迫がこもっており、グローブをつけたスパーリングで、あっという間に懐に入られ、おれは何もできなかった。当たり前だ。それでも、じゃれ合いのようなものであるにしても、こんな男の前に立つことができるようになったことがうれしかった。
ある時は、吹奏楽部でトロンボーンかなんか吹いていた、髪なぞきれいに刈って七三に分けていたりなどする、ちょっと優等生風の男とスパーリングをした。こいつはボクシング部の顧問の先生が「殺人パンチ」と呼ぶほど危険なパンチを持っており、ワンツーしか知らないのだが、それが当ると、レンガか何かで殴られるように効いた。一度、彼が2年生部員とやった時、最初のラウンドで前のめりに倒してしまい、洒落にならなかった。素人でも、生まれつき強いやつがいる。
また、ある時は、おれにタメと呼ばれる男から果たし状が届いた。もともとボクシング部で一番軽いモスキート級でならしていたのだが、バイク事故で頭を強打してやめなくてはならなくなった。「○時、リングで待つ タメ」と書いてあった。みんな、止めた。その男の方をだ。おれも本気でやるつもりはなかった。タメもまた、特におれにウラミがあったわけではないはずで、半分、素人のおれを面白がっていたのだろうと思う。
タメは長いブランクはあったものの、さすがに速かった。ただし、身長とリーチがちがいすぎた。遠い間合いから素早く踏み込んできて、無駄のないフォームで打ち込んでくるのだが、連打には至らない。おれはタメのパンチをかわすだけで時間が過ぎていった。リングを降りる時、タメはありがとうといった。
立場としては滑稽なものだったかもしれない。正規の部員ではなく、ちゃんとした試合に出られるあてもないのに、ジャージを着て練習と減量を続けた。それでも部員たちは、特におれを馬鹿にするでもなく、時にパンチの打ち方や足の運び方、打たれた時に効いた顔をしてはいけない、などといったことを教えてくれた。強いやつほど、いいやつだったと思う。
そうやって、おれは半年で20kg減らしてめでたくフェザー級になった。フェザー級になったところで、正規の部員ではないので何がどうということもないのだが、やはりその階級で九州チャンピオンになった同級生が、時々、スパーリングをしてくれるようになった。
この男は高校生には珍しい典型的なファイターで、首が太く、広背筋の発達した頑丈な上体を振って必殺のフックを送り込んでくるというタイプだった。何が嫌だといって、いいタイミングで当ったおれのパンチが、この太首男にはまったく効かない。エマーソン・レイク・アンド・パーマーのアルマジロ戦車のごとくずんずん、ずんずん、前に出てきて、やがて破壊的な一撃がおれのコメカミやアゴをとらえるのだった。
ある日、彼が、おれのことを「速い」とほめてくれたことが伝わってきた。ディフェンスの動きのことを言っていたらしい。パンチ力に欠けるおれは、ミゲール・カントをお手本にしていた。ほとんど右を打たず、タイミングのいい左と神業のようなディフェンスで、どんな強打者を相手にしてもきれいな顔のままでリングを降りてくるメキシコ人のWBCフライ級王者。おれに栄光があったとすれば、その日だった。
その頃、歩いていると、急に視野が狭くなって倒れそうになったりした。糖分が極端に不足すると、網膜を動かすエネルギーが足りなくなってブラックアウトという現象が起きる。そんな知識もありはしかった。
その頃、モノゴトの始まりだった76kgをさらに超えたおれは、今、何級に自分を落ち着かせるべきか迷っているのだった。